以前は毎日まいにちネットで音楽を聴き漁ってて
毎日サンクラやバンキャンをチェックしては
気になった人をメモして、それを決めた周期でチェックして
変化をかるーくストーカーする、の繰り返しだったけど
おおよそ1年で1000曲ほど、ケニーさんのデモを聴いてたので
音楽を聴き漁ることが物理的に難しくなり
(メリディアンに至るまで、結果的にこれくらいデモを聴いている)
そうなってくるとちゃんと聴きたい音楽を聴くようになるもので。
聴きたい音楽っていうと、コレもまた多岐にはわたるんだけど
クラッシックを聴くことがすごく増えたのです。
特に、現代作曲のソナタ。ソナタっていうのは単純に室内で演奏される曲って意味で、
バイオリンソナタだとピアノの伴奏付き(なぜか伴奏ピアノは略される)バイオリン曲。
割と単純明快で「歌が無くてもドラマがある」起伏のある展開が多いの印象です。
つまり、クラシックの中でもダンサブルというか。。。ミニマルだけどエモい。
なので、現代作曲でも意外と、”懐古的”だったりもするのです。
分かり易いといえばいいのかもしれない。
わかりやすいって良い言葉なはずだけど、なぜかクラシックやアートの世界では嫌われる。
わかりやすいことはダサイと思われる。
しかしながら、じゃぁこの音楽が誰にでもすぐに共有できるかと言えば全然そうでもなく・・・
つまり、踏み込めるか、どうか。の差分な気がします。。。
んで、そういう意味ではダンスミュージックも早幾年月を経て
エレクトロニクスの表現たるや自由自在に広がっただけに
いわゆる”難解”であるというのはもはやその難解というポジションそのものがアナクロであり
新ロマン主義、ミニマリズム、セリエリズム、ポリリズム、偶然性、空間性、身体性、スペクトル音楽、エレクトロニクス、ノイズ、アプロプリエーション、ポップ、アコード、ドミナント。。。などなど・・・使い古した表現そのものから如何に離れていくかという挑戦の渦に向かっていく事が先を進めるという形になるのかな、と。
そうすると、いわゆる手法を重ねていった果ての難解であるというアナクロな感覚は、最も自由ではないんだろうな、とも思ったりするのです。
ケニーさんと、大量のデモを聴いてるときに
重要視されたのは、直感性とか、まず最初の言葉、みたいな所で
しかもとても単純な表現を求められたんだけど、それもつまりは如何に自由に表現を拡げて
突き詰めて、なおかつ発明するか、みたいな所に使い古された音楽的用語ではなく
タダ単純に「ヤバイ」「クソヤバイ」「意味がワカラン」「最高」であるべきと。
音楽の自由な、そしてダンスミュージック故の大衆性、風俗感・・・
多分、メリディアンを他の何かに似てるとか、ひっぱりだして比べることは簡単かもしれないし
そういう表現そのものについては、あえて言えば懐古主義的な所があると思う
だって、分かり易いものね。
分かり易い、つまり誰もが恐らく最初っから「なんだこれ!ヤバイ!わからんけど!」って
言いたくなるし、言えちゃう懐がアルってこと。
考えさせるよりも、感じさせる。まさに、件のソナタ、なんだろうと思う。
フットワークのフォーマットを忠実になぞりながら、ミニマルだが燃えるほどの熱量と圧。
THEATER 1のとき、ぼくは「高次に複雑」と表現したが
CRZKNYはもっと体感性の中で、複雑な構成をいとも簡単に踏み込ませる間口をもっている。
音楽を知らなければ、知らないほど、面白いと思えるんだと思う。
そういう、未知ゆえの恐怖に似たゾワゾワっと鳥肌がたつような
居心地の悪い、身の置き所の無い、でもこの先に行けば絶対面白いと
好奇心をおさえることのできない、悪戯とユーモアに満ちた音像世界。
これを妄想のダンスフロアとするなら、そこに、行きたい。踊って、燃え尽きたい。
ケニーさんはたった1人だから、この場合はソナタではなく、ソナチネ、か。
ダンスミュージックのクラシックになると、ぼくは信じてる。
いつか、これが”フットワークの為のCRZKNYによるサブベースソナチネ、主に短調” ってなると思ってる、子供じみた事かもしれないけれど、音楽の楽しみ方をまた増やしてくれたと思う。